星野一義氏の思い出6

F-3000シリーズはヨーロッパの流れと決別しF-Nipponの名称が与えられた。

F-3000からの正常進化になり、マシンは熟成の極みになっていた。

星野は若くないし近い年代のドライバーもいない、若手は自分の息子と言っても過言ではないくらいになってきた。
その若手ドライバーには高木虎之介を始め何人かの若手有力選手の中に星野がいる。
日本一速い男の意地と言うよりは星野一義走り続ける魂がと言って良いだろう。

また、この頃のマシンにはシーケンシャルトランスミッションが搭載されていた。
メリットは回転が合えばクラッチを切らずに瞬時にシフトチェンジが出来る。
デメリットは1段ずつしかシフトチェンジ出来ないからフルブレーキングで5速から一気に2速へのシフトダウンが出来ない。

星野はこのシーケンシャルシフトを気に入らずフォーミュラーレースでは通常のH型パターンの通常マニュアルトランスミッションに載せ変えていた。

また、トップフォーミュラー晩年は若い頃メカニックとして苦楽を共にしてきた五十嵐協二氏が設立したクエスト社がメンテナンスを受け持っていた。

五十嵐は星野の望むトランスミッションの変更などいくつも実施し万全のメンテナンスをしていた。
反面、五十嵐は星野にはっきりものを言える少数の一人であり時には声を荒げて説明をする場面もあった。

F-Nipponで星野と高木虎之介のベストレースと言えば1995年の富士スピードウェイでのストレートバトルだろう。

スタートに若干遅れた虎之介がトップの星野に追い付きストレートで追い抜くシーン。

星野は一切言い訳をしなかった。
『正々堂々勝負して負けたんだから仕方ないが次は負けないと自分は思っている』と語った。
その後、虎之介を乗せている中島悟チーム監督に『F1でも何でも早く連れてっちゃいなよ』と若手にエールを送る。

星野は何故ストレートであっさりと負けたのか?
あまり知られていないが、先に書いたシーケンシャルシフトと通常のH型シフトによるもの。

新しく出来たシーケンシャルシフトには6速仕様もあり富士スピードウェイのように1500メートルもある直線に対応すべく1段ずつ速いギヤが入れられた。
1速ギヤは2速に相当し5速は6速に相当する。
デメリットはスタートダッシュで2速ギヤを1速の変わりに使うから最初の数周は劣勢になる。
メリットはスピードに乗りさえすればそのギヤの速さを使いトップスピードが稼げる。

では通常のH型シフトはどうか?
残念ながら5速以上のギヤ比がない。

これでは、バトルになるとコーナーリングを得意とした星野のマシンではコーナーリングでタイムを稼げない。

しかし、自分の選んだマシンに言い訳だけは絶対にしない。


そして1996年のF-Nippon初年度の開幕戦で優勝する。

星野はこの数年思うような優勝が出来なかった。
年齢もあるだろう。

しかし、走る以上は予選でポールポジションを獲得し勝ちたいと思う自分がいる。
また、星野を勝たせたいと思う五十嵐はこの年から通常のマニュアルトランスミッションでもフル5速仕様に改良し星野を強力にサポートした。


その思いは、1996年の最終戦富士スピードウェイで現れた。
日の入りが早くなり予選終了時は薄暗くなり始めた時に予選終了のチェッカーフラッグが振られた。
同時にコントロールラインを星野が抜けた。

間もなくしてタイミングボードに1分15秒718、ゼッケン19番がトップに表示された。
各チームのピットからどーっとどよめきと歓声が上がった。


実に5年ぶりのポールポジション。
ピットに戻ってくる星野を金子監督を始めスタッフやメディア、ライバルチームの監督が続々と祝福に来た。

決勝レースは作戦や他車との駆け引きがあるが、予選は速いか遅いかしかない。
星野一義49歳でのポールポジション。

決勝レースは赤旗再スタートが切られた。
快調に走っているかに見えたが数周で緊急ピットイン。
再スタートの時にクラッチを痛めてしまった。

自分のミスによる苛立ちからピットに戻るなりグローブを叩き付け、更にはヘルメットも叩き付けるが怒りは収まらない。

きっと、これが自身にとって最後のポール・トゥー・フィニッシュのチャンスだと悟っていたのかも知れない。

レース翌日に星野は金子を連れてアライヘルメット本社に行き自分への怒りのあまりヘルメットを叩き付けてしまったことを謝罪に行った。


また、一大決心をする。

それは、1997年の開幕前にトップフォーミュラー引退を発表した。
五十嵐によると開幕前の合同テストでの走りを見て『これは引退してしまうかもしれない』と思ったと言う。


そして、国内レースはJGTC(GT選手権)のみ出場し、日産ル・マン24時間耐久レースのワークス参戦に傾注すると言う。

F-1に行けなかった星野を何とか世界の舞台でトップにしたいと日産自動車が動いたと言って良いだろう。

しかし、1997年のル・マンは惨敗する。

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by urochiiko | 2014-10-22 06:31 | 日記


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