日本のモータースポーツ界で活躍した金子豊氏が5月3日に永眠しました。
享年72歳。 金子豊氏は若き日に本田技研で働き、またダイハツのトップセールスマンとして活躍した。 青春をモトクロスライダーとして友にしたレーシングカードライバー星野一義氏に再会し、星野の妹を嫁にもらうとレーシングドカーライバー星野の敏腕マネジャーとして星野の人生そのものを支えてきた。 それは、マネジャーだけにとどまらずホシノ・インパル副社長、ホシノ・レーシング代表取締役を勤めた。 まさに、星野一義と金子豊は一心同体で歩んできた。 そこには、自身が年上でありながら星野を心の底から尊敬し、星野の為ならどんな苦難や努力を惜しまなかった。 若き時代から星野を支え、1980年代の黄金期はもちろん星野が1990年にF1日本グランプリにベネトンから出場出来る可能性がある時も、金子は星野の夢を実現させるために可能な限り動いたし、星野がレース中のトラブルで怒りのあまりヘルメットを投げた時は翌日に星野を連れてアライヘルメット本社まで謝りにも行った。 とても、濃い人生を歩んだ金子豊氏の事は書ききれない。 私は、ホシノ・インパルのショールームで何度か金子豊氏と話をさせて頂いている。 レース中に見せる険しい顔と違いとても穏やかで『星野一義ファン』をとても大切にしていた。 その時の記憶は今でも『星野一義の為に全力を尽くす男』と言うのが伝わってきた。 ホシノインパルで金子豊氏と会話したあとにちょっと出掛けるのでと言い、大きなBMW社製のバイクを環八に出る際に豪快にドリフトして出て行く姿を今でも忘れない。 星野一義の為にホシノ・インパルを軌道に乗せて、星野一義の為にニッサン・ワークス(ニスモではない)ドライバー契約を最後まで維持し、星野一義の為にホシノ・レーシングを育て上げた。 時には星野と喧嘩もしたし、星野のパンツを間違えて履いて帰った事もあった。 ホシノ・インパルを起業して1年以上売れなかったタイヤホイールは金子の自宅に山積みになった事もある。 星野の事を誰よりも理解し、星野の夢を実現する為に交渉し、星野が優勝して戻ってくると満面の笑みで迎えた。 星野がクラッシュして気を失った時は『死んでしまったかもしれないと』泣きながら救急車で同行した事もあるし、星野の引退セレモニーでは万感の思いから泣き崩れた。 星野一義が『燃える男』『日本一速い男』と言われた陰にはいつも金子豊氏が全力で支えてきた。 まだまだ、書ききれません。 私から見た金子豊氏は『尊敬する男を心から下支えをした素晴らしい人生を歩んだ方』 心からご冥福をお祈り申し上げます。
by urochiiko
| 2015-05-07 05:23
| 日記
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