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星野一義氏の思い出2

星野は1980年代半ばトップフォーミュラーで勝てずに喘いでいた。
日産とホンダの計らいで日産契約のままフォーミュラーでホンダエンジンを搭載する事が出来てもうまく噛み合わなかった。
詳細は下記に記載する。

しかし、グラチャン(GC)シリーズでは、そのうっぷんをはらすかのように1984年には全戦で優勝を飾る。
(全戦2位は中嶋悟氏)

そしてグループCカーの耐久レースはニッサン(ニスモ)と苦難が待ち受けていた。

日産自動車は1984年レース専門の子会社を設立する。
レース専門の自動車メーカー直系会社は日本では初めてで『ニッサン・モーター・スポーツ・インターナショナル通称ニスモ』が発足した。

これからレースに関係ないお偉いさんの有難い発言で翻弄されなくなる…と思ったかもしれない。

しかし、購入したマーチの凡庸シャシーはまだしも、自前のエンジンは泣かず飛ばずトラブル続きでマシンはまともに走らない。
ニッサンのアメリカチームで実績を残したエクストラモーティブ社のエンジンを入手し迷路の抜け道を探る。
この時に日産の古き縄張りで追浜が別型の耐久レースエンジンを開発し組み上げサーキットまで持って来たがエクストラモーティブ社のエンジンが圧倒的に性能が良く決める。

初代社長の故難波氏は、この中でもチームスタッフとドライバーを鼓舞させてきた。

星野には、富士で開かれる世界耐久レース(WEC)で優勝をしたらル・マンに行くぞ!と言い続けた。

しかし、エンジンはエクストラモーティブ社のエンジンではポルシェに勝てない。
日産自動車は新型の耐久レース用エンジン開発に漕ぎ着ける。

日産自動車がレース用エンジンを作るのにゴーサインが出て皆はその夢に託した。
ようやく、出来上がったエンジンもこれまた旧式をベースとして皆の期待に反してしまう。

トラブル続きでマシンのセットアップは出来ず、エンジンがトラブルを起こしたりマシンのトラブルだったり、あっちを治せばこっちが壊れる。


このように日産自動車から独立した会社でありながら日産本社のお偉いさんに翻弄され、日産社内の縄張りからお家騒動の中、先の見えない状況に陥った時に1985年の世界耐久レース富士スピードウェイで雨の中星野は優勝する。

1986年に難波社長が何とか日産自動車から予算をもらいル・マンに出場。

まだ、未知の24時間耐久レース。

現地に行って自分達の準備不足を痛感する。
すでに、参戦していたマツダは現地法人のスタッフやその家族によって食事の準備がされていた。

では、ニッサンは…
ドライバー、スタッフが食事をするスペースも椅子もなくアスファルトに座って食事をする始末。

ル・マン24時間耐久レースに参戦すると言うことは、何日も続く戦いでありそこに24時間レースがある。
と思い知らされる。

打倒ポルシェとして挑んだが、予選では25秒もタイム差があった。
特に初年度はピットがポルシェの隣だった事もあり、トラブル続きのニッサンチームを心配してポルシェのメカニックがアドバイスに来てくれたりもした。


1989年に導入される林義正氏によるV8エンジンと水野和敏氏によるマネジメントとローラ・カーズのシャシーを導入するまで、トラブルでまともに走れない事が多かったがチームは向上していた。

しかし1986年の終わりにニスモを震撼させる事件が起きた。

それは、星野一義氏のニッサン離脱だ。
冒頭に書いたように、星野は長年フォーミュラーではニッサンが活動しないから、市販されるエンジンを使用していた。
当時のF2ではホンダV6エンジンが強力で市販の4気筒BMWでは太刀打ち出来ずにいた。
星野は国内トップフォーミュラーでチャンピオンになってこそ真のチャンピオンだと強く思っており、どうしてもF2で強力なエンジンが必要だ。
そうなると、日産自動車の契約を解除してホンダと契約をするしかない。

補足すると、当時はカテゴリーに関係なく自動車メーカーと契約をすれば、契約メーカーの参戦しないカテゴリーでは市販のメーカーしか使えず、カテゴリー単位の自動車メーカーとの契約はご法度な時代だった。

ニスモの難波社長と話し日産自動車のモータースポーツを取り仕切る河合専務に会いに行く。
事の成り行きを説明する難波と長年お世話になった日産自動車に対するお礼を述べる星野に向かって河合の返答は全く予想しなかった言葉が返ってきた。
『良くわかった。両方乗れ!』

難波と星野は顔を合わせてポカンとした。

河合は続けて『俺が両方乗れと言っているんだ問題あるのか?俺から宗一郎(ホンダ技研創業者の本田宗一郎氏)に話しておけば良いのだろう!』
と畳み掛けた。
この予想していない返答に星野は『本当に良いのですか?』
と聞くと、河合から男気ある言葉が寄せられた。『だいたい、今まで車何台壊したと思っているんだ!簡単に辞めてもらっては困る。まだまだ日産で走ってもらうぞ』と言われる。

星野は生涯この時の恩を忘れないと言っていた。

ニスモを揺るがした星野離脱騒動も一件落着した。

ここからVRH35エンジンとローラ・カーズによるシャシーが登場するまで2年がかかる。
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by urochiiko | 2014-09-29 06:52 | 日記


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